![]() |
現在の上池袋町はもと「堀之内町」で江戸のころは「新田堀之内村」とよばれたところである。都電王子の先「梶原」の停留所の辺りを領していた「梶原堀之内村」の元禄の開発新田として生まれ、初めは「堀之内新田村」といわれていたのが、いつのまにか「新田堀之内村」と変わったというところである。明治になってからの調査に、「コノ村、畑ノミニテ水田ナシ。土地形成、高燥平坦」と出ている。「高台で乾いていて、畑ばかりの平地」というこの村に、「滝がある」といったら誰でも驚くに違いない。滝は高低差のところを流れ下るのだから、「平坦」な新田堀之内村に「滝」があったとはとても思えない。
ところが、『遊歴雑記』という本には「村に滝がある」と書いてあるのだ。『遊歴雑記』は十方庵敬順という小石川の隠居したお坊さんが、文化年間(1804〜18)の江戸を歩いて見聞を書きとめたもので、当時の様子を知る貴重な文献である。それには、「武州豊島郡上新田堀之内村は池袋村の東北3町のところにあり、この村に清流の滝がある」ときちんと記されていて、村人たちは、「飛泉の滝」といっていると滝の名称も述べているのである。
そしてこの滝の様子をこんなふうに描写している。「その滝は高い所から落ちるのではなく、北から西南に向かって4段になって落ちる。その様子は絵を見るようですばらしい。この滝の左右の地は狭まっていて高さは1丈以上あるが、岩がないので細い谷を流れるように見える。あたりは雑木が自然のままに生えているだけだが、手入れされた庭園に劣るものではない」。
滝の高さは「3メートル以上はある」らしいが、「流れは細い」のでこれではとても堂々とした「飛泉の滝」とはいえないが、「滝」であることには変わりはない。だから「聞こえるのは野鳥の声と滝の音ばかりでしんと静まっているのがいい」と、このおだやかな風趣が敬順の疲れを癒したようだ。それなのに、滝に遊んでいるのが5、6人の子どもばかりだったので、「この天然の滝が人に知られてないというのは残念だ」と感想をもらしている。現在の上池袋町に代々住んでいる古老の方々も、それだけの高低差のある場所を知らない、聞いたこともないと首をかしげるだけだから、まさに新田堀之内村の「まぼろしの滝」といえる滝が江戸のころにここにあったのである。