![]() 猿田彦大神 巣鴨庚申堂(巣鴨4-35-1) |
江戸時代の巣鴨村の村図に、ごく単純に2本の道の交差したものがある。左右の道は中山道、巣鴨村は江戸五街道のひとつであるこの中山道で江戸市中と郊外、諸国に通じて栄えた。中山道と交差する道は王子道、現在の折り戸通りである。王子道は「花の道」で春は飛鳥山のさくら見物、秋は北区の「岩屋弁才天」紅葉寺のもみじ狩りの道筋で、現在の都電新庚申塚のところにむかし、「弁財天みち」と記した道しるべが立っていた(その道しるべは今は紅葉寺門前にある)。古老のお話では、昭和の初めごろまで、春、花見に仮装した連中が賑やかに通ったという。中山道と王子道の交差したところに石碑のような絵が描かれている。そこが庚申塚の地である。
この交差点を「庚申塚」というのは、ここにあった庚申塔が壊れて塚を築いて埋めたからである。『遊歴雑記』によると、「この庚申塔は文亀2年(1502)建立のもので、高さ8尺」という大きなものだった。大きいからその庚申塔の裏に盗賊が隠れて往来の人から金品を奪うということもあったらしい。その庚申塔が壊れたのは、江戸市中4分の3を焼き尽くしたという「明暦の大火」(1657)のあと、ここに置かれた復興用の材木がある日塔の上に倒れてきたためだった。庚申塔は「庚申信仰」から生まれたもので、江戸時代は各地に庚申講が結ばれ、庚申塔も各所にあるが庚申「塚」は外【ほか】には聞かない。
この庚申塚のところは、材木置き場になるようなちょっとした広場があって、江戸のころは中山道板橋宿までの途中の「立場」だった。立場というのは街道の休憩所ということで、ここに2軒の茶店ができ、藤の花を咲かせたり団子などで旅人をもてなした。「藤棚に寝てみてもお江戸かな」と一茶もここで休んで江戸に入った安らぎを得ていたようだ。旅人はゆっくりお茶を飲んで疲れを癒し、あるいは馬を取り替えたりすることもあった。
![]() 庚申堂内の石碑「庚申塚(江戸名所図会より)」 |
『江戸名所図会』には旅人で賑わう様子が描かれており、現在は道をゆく人々の安全を祈って「道の神」の猿田彦を祀って賑やかだが、同じ場所を描いた広重の浮世絵では人影も少なく、20世紀になろうとする明治33年にこの庚申塚近くの明治女学校に入学した野上弥生子(小説家・文化勲章受賞)が、「大分県の故郷より、もっと田舎だ」と驚いているくらいのところでもあった。