![]() 染井霊園内 高村光太郎・智恵子の墓 (1種ロ6号1側) |
詩集『智恵子抄』・『智恵子抄その後』で妻智恵子への限りない愛を歌った染井霊園に眠る高村光太郎(1883-1956)が、長沼智恵子と初めて会ったのは明治44年12月のある晴れた日でした。その日、画家柳敬助(やなぎけいすけ)の新婚の妻八重子は、日本女子大の後輩の智恵子を連れて文京区の道灌山下で市電を降り、団子坂を登って林町の高村光太郎宅に向かいました。八重子は智恵子が曲がり角で足をとめ、「静かな街ですこと」と小さく口にしたこと、光太郎がスト―ブに石炭を焚いて家で待っていたことをいつまでも覚えていて、その日が「相会うべく生まれたふたりが相会う日であった」と感動的に述べています。(『新緑に想うこと』)智恵子25歳、光太郎の3歳年下でした。
光太郎の初めて見た智恵子は背が低く丸顔で色が白く、そして静かでした。ほとんど口をきかず、口を開いても語尾が消えるようで、初印象は「人形のようだ」というものでした。そんな智恵子が、犬吠崎に写生に出かけた光太郎を追って来て、ハマボウフウの花を摘んでは走って一つ一つ光太郎に見せにくるのです。それは自然そのままの「おさな児のまこと」のままの「清く透きとおった」姿でした。彼女は「おさな児のまことの心」で、酒と女に荒れていた光太郎の「汚れ果てたるかずかずの姿」(『郊外の人に』)から、父光雲に背く彼の苦痛を嗅ぎ取り、彼の美質を発見していきます。光太郎はこの智恵子によって自分が清められてゆく実感に震えました。ふたりはそうして分離することのできない一つの個体となってゆくのですが、運命がこの個体を引き裂きます。
![]() 高村光太郎・智恵子 イラスト提供:伊藤榮洪著 「ぶらり中山道巣鴨」より 原一展氏(本名大塚利明) ![]() 十和田湖畔 乙女の像 画像提供:社団法人十和田市観光協会 |
昭和8年ごろから智恵子は幻覚を見るようになり、「螺旋のようにぎりぎりと」症状がすすんで、その年の夏、「半ば狂える妻は草を藉いて坐し、わたくしの手に重くもたれて泣きやまぬ童女のように慟哭し、そして、「わたしもうじき駄目になる」と必死に光太郎にすがるのです。だが、光太郎に出来ることは、「この妻をとりもどすすべが今の世にない」(『山麓の二人』)という恐ろしい現実を受け入れ、狂気の妻を我がこととして全面的に支えることだけしかないのです。光太郎が結婚届を出したのはその覚悟でした。
昭和13年10月5日、病床の智恵子は光太郎が持参したレモンに歯をあててガリガリと噛み、大きく息を吐いて亡くなります。分かち難い個体が剥離して、光太郎はその「ほら穴」の空虚を埋め切れません。「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとり目つぶる吾(あ)を寝(いね)しめず」。智恵子の死んだ翌14年の光太郎の彫刻は一つもありません。そんな光太郎が不思議な体験をします。満月の夜、智恵子と一緒にビ―ルを飲もうとコップについでおいたのが空になっていたのです。光太郎は智恵子が甦ってそのビ―ルを飲んだと信じました。その体験が「智恵子はいつも身近にいる」意識となってようやく光太郎を救います。
戦争が終わると、光太郎は自分の戦争責任を責め、自分を「島流し」にし、岩手県の山の中に小さな小屋を建てて住みました。夜、光太郎が「智恵子っ、智恵子っ」と大声で呼んでいたという話を地元の人から聞いています。そんな夜は智恵子がきっと光太郎のもとに甦っていたのでしょう。その智恵子を光太郎は彫像に創り十和田湖畔に「乙女の像」として遺し、昭和31年4月2日、春に珍しい大雪の日に亡くなりました。雪は光太郎の魂を迎えるために、「東京には空がない」と嘆いていた智恵子が降らせたに違いありません。